teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]


新車287系投入

 投稿者:田舎の駅長メール  投稿日:2011年 4月16日(土)23時06分22秒
返信・引用
  舞鶴の鉄道の話題」
昭和40年代に製造された183系特急電車に代わってJR西日本が新たに製造した新系列電車287系がまいづる号全列車に投入し
本日から運転を恥じました
盛大な出発式を九州新幹線さくら、みずほなどとともに予定されていましたが東北の大地震の影響で取りやめになりました

従来のKTR「タンゴディスカバリー」も「まいづる」号に名を変え快適な車両に代わりました

この車両は・・写真の通り白に赤のラインをつけ「はしだて」「きのさき」「こうのとり」とも共通運用になります製造が追い付いていませんので将来は棋聖戦「くろしお」にも使用されます

鉄道模型運転会
舞鶴市福祉総合会館(西支所)では勤労者美術展が明日13日まで行われていますが協賛イベントとしてNゲージ鉄道模型のジオラマ運転会をしています
これは情景鉄道ジオラマが中心ですが私の「綾部駅」モデルも組み込み快適な223系電車を走らせています。

予告
5/3,5/4には舞鶴市市政記念館で大鉄道模型運転会イベントが開催されます 恒例行事で毎津市2000名の入場(無料)があります

写真は新旧の「特急まいづる」

地域の情報をどんどん発信してまいります・・ご期待ください(田舎の駅長)

 
 

ルポ・青春18で瀬戸大橋線へ

 投稿者:田舎の駅長  投稿日:2008年 4月 2日(水)00時58分53秒
返信・引用 編集済
   行き当たりばったりの部分が多く一人旅の気楽さです。

舞鶴から岡山へ

 まだ薄暗い西舞鶴駅の一番列車天候は曇り。青春の旅に出発モハ114-6106ではじまる。学生など50%くらい。
 福知山ではKTRの高架腹づけ工事が早く進行今秋には完成か?気になるホームの鈴虫の音色が聞こえなかった。
 乗り換えクモハ112-3814簡易改造のためドアもボタンなく完全に閉まらない。うす寒さには不満。
和田山からキハ41-2004ホーム1番は線路番線は5番・・逆なのか。寺前8:48 クモハ103-3505ここではまかぜ4先送り、福崎あたりから100%の乗り。
「銀の馬車道」とラッピングした103系2両あり。
社内アナウンスが駅ごとに繰り返しがうるさく聞こえる。姫路駅播但高架も今秋くらい完成の進み方。播但33に入る。駅の播但の高架部分は完成し本屋からの通路がかなり変わってきている。姫新線1,0も同様だ。1番からキハ47-1094新宮行き2両結構乗車多い。しかし回数がこの先極端に少なくなるので青春18らしき客が集中しているのかもしれない。
 播磨新宮からキハ40-2091単行。佐用からはキハ120-337単行智頭急行線の高規格線路としばらく並行。このあたりR200-R250のつづら折り且20‰が続く。
 津山からキハ120-359 2Bで3分の接続。食事の時間もない。左に元津山機関区が残されターンテーブルを囲んでキハ47群が多数憩うのを見ながら姫新線と分かれる。この津山線もR200-R250のつづら折りが多い。キハ47の2Bユニットの快速が6往復設定されている。

岡山から高松へ

 岡山駅は07年8月に橋上化されどこにでもある印象の駅でただいま北口の広場が整備されかかっている。福知山のような様子だ。2番ホームの事件現場では花束が献花され一礼。
下車10分前に高松まで足を延ばすことに。40分の猶予しかない。駅内のCAFEESHOPで昼。
直ちにマリンライナーに乗り込む。穏やかな天候で瀬戸内線も眺望がきく。児島で乗員の交代。高松折り返し3分しかないので運用を尋ねると折り返しは30分後で別のホームということ。
高松では、櫛形なので難なく折り返す。高松ー坂出間では223系も130Km運転で住宅地をかけぬける。四国はすでに桜も満開状態で気候の差を感じる。

高松から舞鶴へ

 赤穂線から京都へ向かおうとして岡山で新見発播州赤穂行きに駆け乗る。
たちんぼうで聞く学生らの言葉が岡山弁丸出しが面白い。「じゃあじゃあ弁」ここも温暖の差で木の枕木の線路の間の草が青々と茂りかけていた。牛窓あたりではもう桜も満開、菜の花畑が黄色い花を咲かせているのが印象的だ。姫路10分前から播但線経由に矛先をかえる段取りをした。姫路わずか5分だが舞鶴には1便速くなる。姫路からの103は2両に超満員の通勤。押し込んで入る。福崎あたりまでの辛抱だ。気になる桜も往路よりやや膨らんでいる。
 綾部から暗がりに雨の降る様子がみえる。ここでも気候の大差を感じる。道林さんが言っているように桜は今から開花。
 今日の630Kmはほとんどがいつも見ている町村の風景でそれ自体の感動はないが・・・自然界の植物の育つ環境の違いと、瀬戸大橋線からみる雄大な眺めは印象的だった。そして普通列車に乗る人たちの地域の方言と生活感のある装い。見ているだけで退屈はしない。
鉄道と人と自然の14時間630Kmの異風空間の世界にハマった。

1日乗車データー
西舞鶴5:54-福知山ー和田山ー寺前ー9:33姫路10:12ー播磨新宮ー佐用ー12:38津山12:41ー14:01岡山14:42ー15:36高松  344.8Km
高松15:39ー岡山ー播州赤穂ー18:22姫路18:27ー寺前ー和田山ー福知山ー綾部ー21:39西舞鶴  285.2Km
全行程630Km
 

毎日新聞の京のぽっぽ話

 投稿者:田舎の駅長  投稿日:2008年 2月 3日(日)10時36分4秒
返信・引用
  全シリーズはここで見られます
http://mainichi.jp/area/kyoto/poppo/
 

聞いたまま

 投稿者:田舎の駅長  投稿日:2008年 1月29日(火)00時48分51秒
返信・引用 編集済
  側線談義聞いたまま。

昭和40年前後からSLに乗務していたTさんから聞いた話。

大和側線。
西舞鶴から大和側線は1閉塞区間で四所駅と同等のタブレットを持ち宮津線から工場分岐のポイントはこの通票(タマ)でポイントを変換する構造になっていた。朝は西舞鶴から2両程度の有蓋車に空車回送し、製品を積んだ有蓋車と交換して西舞鶴駅に戻り、夕方の便で工場へ原綿を運んだという。
ポイント交換や誘導には機関車の前面ステップに3人も乗せて、走っていた。機関車はC12型であった。

倉谷側線は・・
海軍工廠(戦艦用兵器工場、後に車両も製造)として建設した。戦後はC12が貨車5両程度引き、日の出科学工場まで肥料の原料や製品を運んだ。
この線は国鉄所有であったが後に会社専用線となり国鉄C12が担当した。SL引退後はDE10に替わった。この線区では貨車に車掌車をも編成していた。
飯野車両工場へは国鉄の路線であったが、車両工場内は会社の入れ替え機関車にバトンタッチした。
この工場では、貨車、客車、気動車も製造。韓国向け標準軌のタンク車も製造しトラックで埠頭まで運ぶ風景もあった。製造された車両の試運転は5両単位で、宮津線で特別ダイヤで行われた。

舞鶴港線
信号機こそないが1閉塞設けられ、その駅の本屋は第一埠頭側にあり掘っ立て小屋のような駅舎には駅員も置していた。後に第二埠頭にも海舞鶴駅が出来た。この駅までは、国鉄管理で、後昭和49年に延伸した京都府営の臨港線は新たに増備された移動専用機関車にバトンタッチした。第一埠頭には大型のテルファーがあり貨物の積み降ろしが盛んな時期もあった。宮津線開通までは、この場所から国鉄連絡線が、宮津港や境港に運航されていた。

舞鶴管財製材所
正確なデータなし

住友セメントプラント工場
昭和40年代になり西舞鶴駅から引き上げ線の延長上の公文名に側線ができ、C12が工場入り口までセメント貨車を押し込み、工場側では、会社の移動機関車がスイッチバックの留置線を移動させていた。この線は100m程度の短いものであったにもかかわらず、機関車まで配置していた。

中舞鶴線・
海軍の拠点となった舞鶴では機関区が東舞鶴駅に先に設けられ軍人輸送の要となった駅である。駅舎も西舞鶴よりは立派な駅舎本屋だった。中舞鶴までの3.4Kmの中舞鶴線の歴史は海軍の歴史でもあり様々なエピソードのある線でもある。
東門駅には駅員も配置されていた。
中舞鶴駅も8線の留置線をもち駅員も100人も居たという。
多いときには9両編成で軍人、工員を運んだ。牽引機C12もたびたび力尽き止ったという。当時は燃料の品質も悪かったそうだ。

造船所側線
総監部前から右手にカーブして造船所専用線に入って行き工場内は各工作棟に入っていく。工場内は専用の機関車で移動していた。主に鉄板など重量物の運搬につかわれた。

西舞鶴駅
昭和30年代は10両編成から1000人も降りたという。
当然出札窓口、改札口、出口も複数、に別々に設けられた。軍人輸送とはちがい支線、側線から集約した貨物の仕分けの役目を負い管理局の重要機能駅になり、その当時駅職員は駅員、機関区、客貨車区、車掌区、信号、電気、保線支区で700人も配置されていた。今は契約含め14人とか。
 

大和紡績側線

 投稿者:田舎の駅長  投稿日:2008年 1月27日(日)21時55分40秒
返信・引用
  朝から雨の予報は当たった。霙こそないが条件が悪い。
 今日の目標は・・舞鶴市内の廃線跡探索のうち和紡績側線跡の様子だ。

 ダイワボウマテリアルは去年6月に工場火災を起こし3分の1が消失、9月に工場閉鎖、さらに取り壊し中である。


 宮津線高野由里地区から左分岐すると工場の2メートルくらいの周囲を廻らす塀をあけて敷地内に入り、スイッチバックして2線になる。工場敷地内は如何になっているのか分からないのでルポは出来ない

 工場の塀と平行に水路があり、いまその場所に行くと・・さびた鉄橋を発見。もちろん線路はすべてめくられ草むらになっていた。・・・・写真参照。あらためて天候の良い日に鉄橋に接近してみたいと思う。

 この分岐の当たりには、矢羽根のポイントがありC12に後押しされ5両程度の有蓋車が1日朝夕2回運転されていた。当然のことながら駅から誘導員をのせ、ポイント交換もしていた。
このダイヤは昭和45年ころのダイヤに不定期運行として掲載されていた。

 残念ながら舞鶴にとっては過去に繁栄した工場が消えることは、さびしい限りである。
 

倉谷側線

 投稿者:田舎の駅長  投稿日:2008年 1月26日(土)12時29分43秒
返信・引用
  倉谷側線
 西舞鶴駅伊佐津から分岐するあたりは草むらになっていて、位置を想像する程度で近年その先の跡地は、ほとんどが住宅地化している。

 分岐する当たりから400mの左カーブで伊佐津川土手までゆるやかな勾配になる。現在では、その中間に道路が横切るので当時のままの状態でコンクリートの脚台(写真)だけをのこし、その前後は平地にして、完全に宅地化している。ここも道路拡張が進行しているので取り壊されるのは近いだろう。

 さらに、伊佐津川をわたりきって最初の脚台が良くわかる。橋脚の4,5本は跡形もない。その脚台から、ゆるやかな勾配で現日の出化学工場内に入るのであるが当時をしのぶものは100mほどの盛り土部分のみて゛ある。その一部は宅地が5軒開発され住宅が並ぶが、線路跡地であることがよく伺える。

 日の出化学工場内は4線に膨らみその1本が飯野重工業(後に舞鶴重工業)に入りさらに多くの分岐をしていた様子が昭和56年の航空写真(舞鶴市資料館所蔵)で線路跡が確認できる。

 舞鶴港線は前日投稿したが、舞鶴市円満寺(飛び地)から飯野製材所にスイッチバックで入る部分はやはり昭和56年の航空写真でなんとなく土地の形状で識別できる。ここも当時から運動公園として埋め立てにはいっていた。

 高野川尻にあった昇降式可動橋は・・高野川の洪水等の河川管理上撤去されたと聞くが、この珍しい鉄橋は保存してほしかった。
 

倉谷側線

 投稿者:田舎の駅長  投稿日:2008年 1月26日(土)12時26分1秒
返信・引用
  倉谷側線
 西舞鶴駅伊佐津から分岐するあたりは草むらになっていて、位置を想像する程度で近年その先の跡地は、ほとんどが住宅地化している。

 分岐する当たりから400mの左カーブで伊佐津川土手までゆるやかな勾配になる。現在では、その中間に道路が横切るので当時のままの状態でコンクリートの脚台(写真)だけをのこし、その前後は平地にして、完全に宅地化している。ここも道路拡張が進行しているので取り壊されるのは近いだろう。

 さらに、伊佐津川をわたりきって最初の脚台が良くわかる。橋脚の4,5本は跡形もない。その脚台から、ゆるやかな勾配で現日の出化学工場内に入るのであるが当時をしのぶものは100mほどの盛り土部分のみて゛ある。その一部は宅地が5軒開発され住宅が並ぶが、線路跡地であることがよく伺える。

 日の出化学工場内は4線に膨らみその1本が飯野重工業(後に舞鶴重工業)に入りさらに多くの分岐をしていた様子が昭和56年の航空写真(舞鶴市資料館所蔵)で線路跡が確認できる。

 舞鶴港線は前日投稿したが、舞鶴市円満寺(飛び地)から飯野製材所にスイッチバックで入る部分はやはり昭和56年の航空写真でなんとなく土地の形状で識別できる。ここも当時から運動公園として埋め立てにはいっていた。

 高野川尻にあった昇降式可動橋は・・高野川の洪水等の河川管理上撤去されたと聞くが、この珍しい鉄橋は保存してほしかった。
 

側線探索ルポ

 投稿者:嵯峨根 八郎  投稿日:2008年 1月25日(金)23時56分39秒
返信・引用 編集済
  本日は舞鶴港線跡地を探索してみた。西舞鶴駅から舞鶴港駅まで1.8Kmの短い貨物線だが毛細血管のように枝はたくさんありました。


1904年国鉄が貨物専用として建設1913年(大正2年)から10年間旅客営業もしていた。終端の駅名は昭和41年海舞鶴駅から舞鶴港駅に改められた。

舞鶴港線は1985年(昭和60年)に廃止された後その後はどのようになっているか・・・私なりに歩いてみた。

舞鶴公園の付近で舞鶴線から別れたこの線路はすぐ当時のレンガ造りの水路脚台1箇所残しもう一箇所は昭和44年にコンクリートに架け替えられていた。

築地踏切までは去年に遊歩道に生まれ変わった結構幅が広いのが印象的だ。聾唖学校近くの小川に架かる橋は動輪の形が欄干に施されている。またレンガ調建材でイメージされていた。


 ここから先は、都市計画による等価交換なのか分からないが臨港線道路工事に基づき過去の面影は分からない。住宅や工場が数件建つ。

さらに、その先の現踏み切り付近から高野川尻まで200mは昔のままの跡地の様子がはっきりと分かる。。

 歩いていると、枕木柵が一部がのこり境界柱もまだ残る。線路沿いの住人が畑にしているところもある。

高野川に架かる可動橋だけはその跡形もない。前後の脚台も跡形もなく当時の想像も出来ないくらいだ。橋脚が川に2本鎮座しており、洪水管理で出来ないため、撤去の理由のようだ。この橋だけは移設しても保存してほしかった貴重な資産なのだが残念。

 舞鶴港に向かうと、ここは記憶でたどるところには跡形も残っていない。島崎踏み切りの一箇所には線路が3線残されていた。ここから第2埠頭と海舞鶴駅留置線(3線)と喜多方面に分岐していたその面影が唯一残っている。海舞鶴駅舎や留置線部分は駐車場になり税関前の踏み切りに1本のみ線路がのこりここから大野辺臨港線が伸び倉庫群に並行して2線あったが。ここから先は、後刻のルポで紹介する。

 第1埠頭側の大きなテルファーがあったところや、漁連冷蔵庫は私有地化され建物があり跡形もない。
規模の大きなテルファーは市政記念館の市の歴史資料の絵葉書に描かれているし個人的に写真を所蔵している人はあろう。また筆者幼少のころ、船から荷揚げした材木を、無害車に乗せている光景はみていた。

機関士でこの路線を走っていたT氏の思い出は、後刻に。

50年前の思いが一瞬よみがえった全6Kmのウオーキングだった。

  NET上ではルポされた記事が多く見受けられます。
 下記PHOTOも参考までに。

 http://www.karamatsu-train.co.jp/special/fuku2006-umi.html
 http://www.city.maizuru.kyoto.jp/contents/7d34120e1025131/7d34120e102513112.htm
 http://www.redbrick.jp/isan/sonota/sonota.htm
 http://blogs.yahoo.co.jp/capkiriyama/38529327.html

 反省・もっとはやく気が付けば貴重な財産がいっぱい出来たのに、残念。
 

teacup.掲示板 START!

 投稿者:teacup.運営  投稿日:2008年 1月25日(金)23時52分53秒
返信・引用
  掲示板が完成しました!
掲示板のデザイン変更や記事の削除などは管理者メニュー(管理画面)から行えます。
また、ケータイでは50種類以上のデザインテンプレートが選べますので、ぜひケータイからのご利用もお試しください。(※ケータイ版も同じURLでご利用になれます!)

teacup.の掲示板はお一人様いくつでもご利用になれますので、用途に合わせて掲示板を作成して下さい。※この記事を削除してご利用下さい。
【記事の削除方法】
・掲示板下部の管理者メニュー(管理画面)からログイン
・左メニューより「投稿の管理」をクリック
・削除したい記事にチェックを入れ「削除」をクリック

http://www.teacup.com/

 

レンタル掲示板
/1